朝7時55分。
昔からの習慣で仕事に出かける準備をしながら何となく見ているテレビのニュース番組を消し、家を出る。
男の名は狭川 亮一(さがわ りょういち)。美容師。
客の大半がカットのみの、安価な美容室で働いている。
給料は高いとはいえないが、いつか自分の店を持つための修行期間と考え、朝から晩まで働く日々。
店に入った当初はアシスタント的な仕事しかさせてもらえなかったが、最近ようやくカットを担当するようになった。
家から片道1時間ほどの場所にある店に到着。店内の清掃を終え、身支度を整える。
「今日も頑張ろう」と、狭川は心の中で自分に言い聞かせた。
開店してから2時間ほど経った頃。
店の扉に付いたベルの音が響く。
新しい客が入って来た合図だ。
何人か待合席に客がいたが、他の美容師の人数と現在カットしている客の進捗具合から見て、この新しい客の担当は狭川になりそうだった。
一旦カットの手を止め、客の対応に向かう狭川。
「いらっしゃいませ」と言う前に「今、いけます?」と客の方から声をかけてきた。
肩まで伸びた金髪が特徴的な男性。肌は小麦色というか麦チョコ色に日焼けし、芝生のような口髭を生やし、下唇の直下に小さなピアスを1つ付けている。
服装は全体的に金属の部分が多く、服、ズボン、靴に何らかの英単語がプリントされている。おそらく卑猥な単語だろう。
この男の身なりは、いわゆるDQNを彷彿とさせる。
見かけだけで人柄まで判断するのは良くないが、狭川は学生の頃からこの手のタイプを苦手としていた。
だが今は仕事中。苦手だからといって関わらないわけにはいかない。
それに身なりこそDQNだが、性格はクソがつくほど真面目かもしれないし、話してみたら意外と気が合う可能性もゼロではない。
男「予約してねーんすけど、大丈夫っすか?」
狭川の働く店は予約してから来る客の方が少ない。
狭川「はい、大丈夫ですよ」
男「よかった〜、突然行っても大丈夫かなって、不安だったんっすよねぇ〜」
男は妙に馴れ馴れしい口調だ。
さっきまで「見かけで判断するのは良くない」と思っていた狭川だったが、改めてこの男は自分の苦手なタイプだと確信した。
店内をチラチラ見回す男。
男「いやぁ〜変わってないなぁ〜!あの時のまま!マジ久しぶり。オレここ来んのいつぶりでしたっけ?」
狭川「いや知らないです」
突発的に狭川は答えた。
本当に知らない。
自分はこの店で働き始めて2年になるが、この男を見た覚えがない。
失礼な答え方だったかもしれないと少し後悔の気持ちも芽生えた狭川だったが、この手のタイプは何を言われてもあまり気にしない鋼のメンタルの持ち主だろうと、0.5秒で前向きな気持ちに切り替えた。
男「いやいや、オレっすよ、オレ。前来たじゃないっすか?」
狭川「すみませんちょっと分からないですね……」
芸能人の可能性も考えたが、違う。テレビでもインターネットでも見たことがない。
確実に一般人だ。
なおさら男に不信感を抱く狭川。
一般人のくせに「オレだよオレ」なんて自己紹介するのは、特殊詐欺の実行犯くらいなものだろう。
男「あっそっか!お兄さん初めましてかもね!オレここ来るの、たぶん2年ぶりくらいだから」
2年前なら狭川はすでに働いていたはずだ。
でも男のことは記憶にない。
もしかしたら自分のシフトの日以外に来ていた常連客なのかもしれない。
男「2年前に初めて来たんすよ」
狭川「じゃあ過去1回じゃんーっ!常連じゃないーっ!全然常連じゃないのに10年来くらいの態度ーっ!」
男「まぁ2年空いてちゃ忘れられても仕方ないっすよね」
狭川「いや1回しか来てないのが原因ーっ!予約しないタイプの美容室で1回しか来たことない客の顔なんて覚えられんーっ!」
男「じゃあ改めて初めましてってことで!本当は初めましてじゃないんすけどね。ハッハッハッ」
狭川「息くさーっ!……そうしましたら、こちらの紙にお名前を書いて、席でお待ちください」
男はレジ前にある順番待ちリストに名前を書き、待合席にふんぞり返るように座ると、ポケットから取り出したスマホをいじり始めた。
今はもうほぼ見ることのない、iPhone5を使っている。
ーーーーーーーーーー
男の順番が回ってきた。
狭川が順番待ちリストを確認し、名前を呼ぼうとする。
男の名前は「堂島 智春」と書かれている。
狭川「名字なんて読むのこれーっ!?どうじま?どうしま?どっちーっ!?」
男「あっ、次オレの番っすね。お願いしまーす」
狭川「自分から来てくれたーっ!名字間違えて読んで気まずくなるパターンを回避できたーっ!人生で初めてチャラ男に感謝した気がするーっ!そして今後二度とないだろうーっ!」
椅子に座る堂島。
狭川「今日はどうしましょう?」
堂島「堂島だけに『どうしま』しょう?ってわけっすか?ハハハッ」
狭川「うざーっ!でもコイツの名前はどうしまと読むのが確定したーっ!そして息くさーっ!」
堂島「でもオレ『どうじま』ですよ、『どうじま』。どうじま ともはる。」
狭川「フェイント入れんなーっ!心底どっちでもいいーっ!」
堂島「あー、で、今日どうするかっすよね……じゃあ思い切って、茶髪のドレッドヘアにしてくれません?今までの自分じゃないみたいにしたいんで」
狭川「面倒ーっ!うちみたいなカットのみの店でやる髪型じゃないーっ!この手の客は注文まで厄介というオレの経験則がこの男によって確信に変わったーっ!」
堂島は目を閉じた。
ここからは狭川に任せるという合図なのだろう。
ドレッドヘア。あまりやったことはないが、できないこともない。
とりあえずやってみることにしたが、通常のカットよりも57倍くらいの金をもらいたい気分になった。
準備を始める狭川。
途中、何度か堂島の顔を鏡越しに見ているうちに、なんだか見覚えがあるような気がしてきた。
カラーリングやドレッドヘアの作業中もチラチラ男の顔を見たが、やはりどこかで見た記憶がある。
もしかしたら、常連ではないが、狭川が店にいたタイミングで来たことのある客なのかもしれない。
何なら、自分がカットやシャンプーを担当した客かもしれない。
だとしたら、堂島に対する今までの自分の言動に1ミクロンくらいの申し訳なさを感じた。
毎日数十人を対応するような店で、1回しか来たことがないのに常連ヅラする堂島の客観視できてなさ具合もどうかと思うが、覚えていないと決めつけてしまった自分に、1デシリットルくらい反省する狭川。
狭川「すみません堂島さん、ボク、もしかしたら堂島さんのこと知ってたかもしれません」
目を閉じていた堂島は開眼し、一瞬にして笑顔になった。
堂島「でしょ?ほらやっぱり!前オレ来たもん!」
狭川「そうだったかもしれませんね……すみませんなんか」
堂島「いやいや気にしてないっすよ別に。人って忘れるもんすから。今日覚えて帰ってくださいよ!この顔見たら、堂島だって」
失礼な発言をしてしまったと思う一方、そこはかとないウザさも感じた狭川だった。
ーーーーーーーーーー
翌日
今日も朝のニュース番組をつけながら、仕事に行く準備をする狭川。
ふと、テレビ画面に映る男性アナウンサーと、その横に大きく表示された顔写真に目がいった。
アナウンサー「連続放火殺人の容疑で全国指名手配中の堂島 智春 容疑者は、3件目の犯行から2週間経った現在も逃走中です。警察は……」
狭川「……だから見覚えがあったのか」
<完>