ぬいぐるみやマンガ本が置かれた子ども部屋。その中央にあるベッドの上に仰向けで眠る少女。そして枕元に立ち、少女を見つめる男・都田(とだ)。右手に包丁を握っている。
都田と少女に直接的な関係はない。少女は都田の高校時代の旧友・傘常(かさつね)の娘で、この日初めて対面した。
都田と傘常は高校を卒業して以降、20年近く会っていなかった。そんな傘常から連絡があったのは、1週間前のこと。久しく使っていなかったメールアドレス宛に来た「久しぶり。近いうち飲まない?」という文章。昔はLINEなんて便利なツールはなく、友人とはメールアドレスと電話番号以外の連絡先を交換していなかった。
ろくに会話したことすらない同級生からのメールだったら、マルチ商法の類だと思って無視していただろう。しかし都田にとって傘常は親友と呼べる存在で、学校以外でも毎日のように遊んでいた。仮にマルチだとしても、久しぶりに会って話をするのも悪くない。そう思って返信し、会う約束をした。
ガヤガヤと騒がしい、安い大衆居酒屋の店内で小さな机に向かい合って座る男2人。安い居酒屋が良いと言い出したのは傘常のほうだった。
当然のことだが、傘常は高校時代よりだいぶ老けた。髪にはところどころ白髪が混じり、口元にはほうれい線がくっきりと浮かび上がっている。
高校を卒業してから何をしてきたのか、家族はできたのかなど、1時間ほど話をしながら、酒を飲んだ。親友だったとはいえ、20年ぶりに会う者同士。最初こそ会話はぎこちなかったが、お酒のおかげか、徐々に高校の頃のように話せるようになった。だからこそだろう。傘常は突然、真剣な表情を浮かべ、ある話題を切り出した。
傘常「お前、殺人を請け負ってるんだろ?それが今の収入源か?」
傘常の一言で、教室のようだった雰囲気が、暗い深海に沈んだ。傘常の言う通り、都田は殺人を生業とする殺し屋だ。だが仕事を得るためにホームページを作ったり、ポスターやチラシを作ったりなんて目立つようなことはしていない。過去に殺人で逮捕されたことも、事件が明るみになったこともない。カタギの人間で、都田が殺し屋だと知る者はいないはずだ。傘常は、人には言えない手段で都田の素性を調べたに違いない。
都田「わざわざ飲みに誘ったのはその話をするためか。だったらせめて個室にしろよ」
傘常「お前になるべく多く報酬を払おうと思って、節約してるんだ。それに騒がしい居酒屋で、オッサン2人のコソコソ話をわざわざ盗み聞きするヤツなんていないだろ?」
都田「まぁ、平然と話していれば怪しまれないだろう。で、誰を殺したいんだ?」
傘常「娘だ。今年で6歳になる」
都田「……訳がありそうだな」
傘常「もう2カ月以上、目を覚まさない。ある朝を境にずっとだ。何か事故に巻き込まれたわけでもない。医者に診せたら、健康状態には何ら異常はないが、このまま目覚めなければ衰弱死するって言われたよ。今は点滴で何とか生きながらえているが、どんどん痩せ細っている」
都田「原因は分からないのか?」
傘常「一応、不明なままだ。だがおそらく、笑われるかもしれないが、悪霊に取り憑かれているんだと思う」
都田「悪霊……」
傘常「そういうの、信じてなかったんだけどな。人間、打つ手がなくなると超常的なもののせいにしたくなるらしい……国内の有名な除霊師や沖縄のユタ、バチカンからエクソシストまで呼んで見てもらったが、全員口をそろえて『この世ならざる者に取り憑かれてる』ってさ。それらしい除霊の儀式みたいなものもやってもらったんだが、効果はなかった」
都田「だから、殺すしかなくなったと」
傘常「実の娘を手にかけることはできない。でも、不幸中の幸いで、昔の親友が殺し屋をやっているというじゃないか。だから、お前になら、頼めると思ったんだ。どうか、娘を救ってやってくれないか……もう、あの子が死にゆく姿は見ていられない……」
そして現在に至る。都田は、親友の涙ながらの頼みを断ることができなかった。
傘常の娘の頬は彫刻刀で削ったかのように痩せこけ、長い髪は脂で固まっている。悪魔祓いものの映画に登場する取り憑かれた人間そのものだ。この手の映画だと、憑依した悪魔や悪霊が宿主の体を操って、部屋に入る者を攻撃しようとするのが定番。しかし、少女は眠ったままだ。枕元まで近づいても、剥製のように動かない。
少女を見て、本当に悪霊に取り憑かれているのか、疑問を感じた都田。実は医者が誤った診察をしていて、何かの病気で寝ているだけで、時間が経てばそのうち何事もなかったかのように目覚めるのではないか。明らかに弱っているものの、静かな寝息を立てているだけの少女を見ていると、そんな気持ちになる。
もし悪霊の類に取り憑かれていないのだとしたら、都田はいくら報酬を支払われていても、この少女の命を奪いたくなかった。
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高校を卒業後すぐに結婚し、娘が生まれた都田。幸せな生活を送れるかと思ったが、家庭環境は悪化した。妻が職場のいじめと育児によるストレスから酒を飲み続け、極度のアルコール依存症に陥り、娘に対して暴力を振るうようになった。
結婚から約2年で離婚し、娘を一人で育てることにした都田だが、当時勤めていた会社が経営不振による大量解雇を実施。都田の勤務態度は良好とはいえず、他の社員とトラブルを起こすことが多かったため、真っ先にリストラの対象となったのだ。
その後、職を転々としたが、どの会社でもクビに。自暴自棄になった都田は家にほとんど家に帰らず、ギャンブルに溺れる日々を送った。
娘が死んだのは4歳になってすぐのことだ。栄養失調と熱中症が原因とされ、都田は保護責任者遺棄罪で逮捕。裁判の結果、執行猶予付きの有罪判決が下された。
娘の死は都田の生活を一変させた。ギャンブルは完全にやめて、今度こそ真剣に生きることを誓った。だが、どうしても仕事だけがうまくいかない。生活費が底をつきかけたとき、ある知人から殺人の依頼をされた。一人殺すだけで100万円。都田はワラにもすがる思いで引き受けた。
それから殺し屋の仕事をしている。今までで最も長く続いている仕事だ。しかし、人を殺すのは気分の良いものではない。都田自身、大金をもらえないのであれば、殺人をしようだなんて思わない。
それでも続けてこられたのは、今まで殺した人間たちには、大なり小なり殺されても仕方ないと思える理由があったからだ。結婚詐欺師、横領犯、麻薬の売人、密猟者など、社会的に「悪人」と呼ばれる者だけがターゲットだった。
今回の件は違う。幼い子どもを、自分の娘と年の近い子どもを、「悪霊に取り憑かれているかもしれないから」なんて、バカげた理由で殺そうとしている。
傘常は自分の娘を殺すことが救いであると言っていたが、都田はその言葉をどうしても信じ切れずにいた。本当にこの子にとって死が救済になるのか。親友の頼みだからといって何の罪もない子を手にかけた後に、「やはり正しかった」と納得できるのだろうか。
都田は包丁を強く握りしめた。寝ている子どもを殺す。過去、殺し屋として請け負った仕事の中でここまで簡単なものはい。なのに、最も難しい。少女の寝顔が娘と重なる。涙を流して懇願する親友の顔が頭に浮かぶ。あらゆる感情が葛藤となり、心と体にブレーキをかけるのだ。
子ども部屋の扉が開き、傘常が入ってきた。傘常は自分の娘が死ぬ瞬間を見たくないと、事が終わるまで別室にいるはずだったが、いつまで経っても都田が戻って来ないため、様子を見に来たのだ。
傘常と目が合い、数秒置いて都田が口を開く。
都田「……俺にも、この子くらいの娘がいて、死なせてしまった。苦しかったと思うし、今も死後の世界で苦しんでいるかもしれない。この子も、娘と同じところに行くのだろうか……だとしたら……」
傘常「……お前はプロの殺し屋なんだろう?」
都田「ああ……」
傘常「……だったら私情を挟まず仕事をしてくれよ。お前は今までに殺した人間一人ひとりに、そうやって情けをかけたのか?」
都田「……いや」
傘常「俺の娘の命と、お前が殺してきた人間たちの命との違いは何だ?自分の娘と似ているだけで殺しをためらうのか?そんな良心があるのなら、その感情を他の人間にも向けられなかったのか?」
都田「……すまない。やるよ。だから、部屋から出ていってくれ」
傘常は無言で子ども部屋の扉を閉めた。都田は少女の上にまたがり、逆手に握った包丁を振り上げる。せめて苦しくないよう、痛み感じないよう、心臓を一発で刺す。都田は包丁を振り下ろした。刃が少女の柔らかい皮膚を突き破り、肋骨を砕き、心臓の深くに達する。
その瞬間、少女の目が大きく開いた。
少女「パパ、また私を殺すの?」
ささやくようにそう発した少女は再び目をつむり、永遠に呼吸を止めた。
都田は確信した。やはり少女は取り憑かれていたのだ。しかも、昔死んだ、自分の娘に。そして娘の狙いは、少女を苦しめることでも、傘常を悩ませることでもない。実の父親に、この上ないほどの罪悪感を植え付けること。
都田は少女の胸から包丁を引き抜くと、自身の喉を横に切り裂いた。
<完>