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那須与一の弓矢の実力はオリンピックで金メダル確定⁉︎【楽しく歴史を学ぼう】

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以前書きました、歴史上の人物に関する記事、巴御前という女性の武人について書きました。

 

 

この記事から意外にも多くの反響を得ました。歴史はある意味雑学に通じる部分があるので、
読めば歴史に詳しくなるだけでなくちょっと博識ぶれる記事にもなりました。当ブログのコンセプトに地味にマッチしていたのだと思います。
歴史やそれにかかわる人物についてはwikipediaなどを読んでも小難しいことばかり書いてあり、むしろ歴史を嫌いになってしまいそうです。ですので、ざっくりと5分くらいで読める文量で、歴史を面白く紹介できる記事を書いた方が、歴史を学んでみたいなと思う人たちの後押しができるのではないかと思いました。
私も書きながら雑学の幅が広がるので楽しいです。

 

ということで今回は

「那須与一(なすのよいち)」

という人物と、その伝説的な偉業について紹介しようと思います。

 

 

 

 

「那須与一」ってどんな人?

 

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鎌倉時代直前の源氏と平氏が覇権争いを行った「源平合戦」にて、源氏側についていた武将の一人が那須与一です。
生まれは1169年ごろとされていますが詳しいことは分かっていません。那須与一が登場する「平家物語」等の文献から推察すると、1169年前後の生まれと導き出されています。没年は20年後の1189年とされています。かなり若くして死んだという説もあれば、出家したり、病で顔が変形してしまい自ら身を隠したというような説もあり、謎も多い人物です。

 

与一という名前は、「余り一」という意味で、十一男という意味合いのあだ名なのだそうです。十一番目に生まれた男の子ってことですね。番号で呼ばれるという刑務所さながらの環境ですが、お父さんもお母さんも、十一人も子供がいたら誰がどんな名前か分からなくなりますよね。那須与一の本名は「宗隆」とされています。

 

 

 


那須与一の伝説!

70m以上離れた扇を弓矢で

射抜いた!?

 

那須与一といえばとても有名な伝説がありますね。
1185年の「屋島の戦い」にて、平氏が揺れる船の上に立てた扇の的を、那須与一は陸地から弓矢で一発で射抜いたという伝説です。
幼いころから弓の腕前は兄弟の中でも随一で、与一のお父さんも、


「て…ててて…天才だぁ~!!!この子は弓に愛された子ども!すなわち弓野弓二郎だ!二郎じゃないか!コイツ十一男か!わっはっはっ!」


と驚くほどだったそうです。
屋島の戦いにおいても、扇を誰が射抜くかとなった時に、与一の名が上がるほど、
源氏の中でも屈指の腕前だったとされています。具体的な与一の実力は

「飛んでいる鳥3羽に向かって矢を射れば、2匹は撃ち落とせる」
という噂が立つほど。命中率66%ですが、的は飛んでいる鳥ですからね、動く的を狙い落せる技術は相当です。動いたなくても弓でねらい撃つのは難しいから、弓道やアーチェリーなどの競技にもなっているわけです。

 

元々なぜ与一が扇の的を狙うことになったかというと、平氏の軍は源義経率いる源氏軍に海まで追い詰められてしまいます。
平氏はほぼ負け確定の状況。源氏軍にやられるのも時間の問題でした。
しばしの膠着状態が続く中で、平氏側は船の中で


「ちょっとした余興に、船の上に立てた扇を源氏の弓使いに射させてみようよ!」


「いいね!それ面白そうじゃん!やろうぜやろうぜ!」


みたいなノリになり、与一が伝説を残す状況が生まれたのです。ゲームみたいなものだったというわけですね。少し兆発じみていますが。
これを受けて義経は、弓が上手いやつを自軍から選抜することになり、与一に白羽の矢が立ったというわけでした。弓矢だけに。


弓の天才だった与一ですが、義経から

 

「あの扇を射てくれなか?」

 

と言われると、与一は

 

「いやぁ~、きびしいっすね~。マジ無理です。無理っす無理っす。」

 

と最初は断りました。義経は何とか与一にやらせようとしますが、与一は

 

「いやぁ、だって船の上の扇っすよ?波で動きが読めませんし、海風で矢もまとも飛ばねぇっすよ!」

 

と食い下がりました。義経はなんとか説得しましたが、最終的に与一は

 

「わかったわかった!やりますよ!やりゃいいんでしょ!当たらなくても知らないっすよ!」


という態度で射撃に臨むことになりました。


与一は波打ち際から10メートルくらい海に入り、馬に乗り弓をギリギリと引きます。そして矢を放つと、矢は見事に扇に命中しました。
与一から扇までの距離は、諸説ありましが、大体70~80m程だったとされています。
オリンピック競技にもなっているアーチェリーの射撃距離が約70mです。けど競技としてのアーチェリーはスコープなど、比較的射やすくなるなる設備が整っています。弓の性能だって鎌倉時代のものとは比べもにならに位高いでしょう。
さらに扇は波に揺れ、海風が吹き荒れるなかでの射撃。そんな中で扇を射抜いた与一の腕前は化け物のように優れていたということでしょうね。考えられません。

 

 

 

この後、与一とのゲームを見ていた老兵が船の上で舞を踊ります。
これは与一の腕前を見てその高さに感激し、称賛を表すためのダンスでした。
おっさんのダンスです。まぁ別に何が悪いわけでもないのですが…
ですが与一はこの老兵を射殺してしまいます。
この理由にも諸説あり、与一の味方たちが


「おいおい与一、今のまぐれなんじゃねーのか?」


と言い放ち、まぐれでないことを証明するために、扇と等距離で同じ条件下にあった老人を射抜いたという説。
他には、老人のダンスを見ていた伊勢義盛という人物が


「何アイツ…頭おかしいんじゃねーの?ヤバいから、あいつも射抜いて。」


と命令したという説があります。平家物語では「あれも射よ」と与一に命じる文がありますので、後者の説が有力です。射た理由については私の憶測に過ぎませんが、敵兵がノコノコ出てきて踊っていたら撃ち殺すのも当然である気がします。味方からは大分避難されたともされ、与一のことを煽ってんのか貶してんのかわけのわからない仲間たちですね。

 

 

もしオリンピックのアーチェリーに代表選手として参加していたら、与一は金メダル確実クラスの実力でしょうね。
しかも、与一の年齢からすると、屋島の戦い時点で彼は14~15歳くらいです。
中学3年生でオリンピック優勝クラスの腕前を持っていると考えれば、与一がいかに弓の天才かお分かりかと思います。1000年に1人の天才かもしれませんね。


ちなみに、与一は弓の訓練のせいで左右の腕の長さが違ったという説がありますが、こんなことはテストにも出ないので覚えなくても大丈夫です。

 

 

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