火口 昌治郎(ひぐち まさじろう)は40歳で脱サラし、今日、東京の高円寺にバーを開店した。
バーを経営することは火口の長年の夢であり、資金集めや物件探しなどの準備に約5年を費やした。
以前はほとんど酒が飲めなかった火口。しかしバーテンダーが酒を飲めないというのはおかしな話。この5年間で酒の修行もし、カシスオレンジを3杯も飲めるほどの酒豪へと成長した。
火口がバーの経営に憧れたきっかけは、ある映画のワンシーン。
黒を基調とした薄暗いカウンターのみの店で、ダンディなバーテンダーの男性がずらっと並んだ数々のお酒を背にシェイカーを振る。
そんな姿に一目惚れし、いつか自分で店を持つことを夢見てきた。
もっと欲を言うならば、バーにやってくる客は皆、訳ありの人間たちであってほしい火口。
裏社会と通じている情報屋、その情報を買いにくる名探偵、要人を闇に葬る殺し屋。
そんな客たちがこぞって集まる、少し怪しげなバーにするのが火口の理想なのである。
もちろん、世の中そう思い通りにいくわけがない。
重要なのは、サラリーマン時代と違い、店に来る客を火口自身が選べるということだ。
自分が嫌だと感じる客が来たら出禁にもできる。そして自分の理想の客が集まるバーにできる。
そんな働きやすさにもメリットを感じていた。
19:00
店の扉にかけた「CLOSE」の札をひっくり返し「OPEN」にする。
火口の夢が叶った瞬間だ。
大々的に広告を打っていたわけではないので、すぐに客は来ないだろうと考えていた火口。
憧れた映画のシーンそっくりなバーカウンターの中でぼんやりと店内を眺めながる。
入り口のガラス張りの扉から差し込む夜街の灯り。
来るかどうかも分からない客を待つ。
開店してから1分も経っていないだろう。
店の扉が開き、扉の上に設置していたベルが鳴る。
火口のバーテンダー人生で初めての客だ。
店の入口に目をやる火口。
そこには1人の男が立っていた。
年齢は50歳前後、ボサボサの黒髪に無精髭。眼鏡をかけ、ところどころ汚れた薄茶色のロングコートを着ている。
自堕落な生活をしていそうな身なりだ。
だが、こういうクセのありそうな客こそ火口が求めていた存在であり、見た目だけなら、この男は火口の理想像にかなり近い。
???「ここか……思った以上に居心地の良さそうなバーだ」
男は独り言を呟く。声は酒焼けしているのか、かすれ気味だ。
火口「いらっしゃいませ!あのぉ、これは言う必要ないかもしれませんが、アナタは当店のお客さん第一号なんです!こんなに早く来てくれるなんて……どうやってうちのことを知ったんですか?」
???「私は情報屋なもんでね。あらゆる情報が、私のiPhone12に入っている。もちろんこの店の情報もね」
火口「……情報屋!?すごい!いきなり夢が叶った!こういう人に常連になってほしいんだよ!やっぱりあれですか?闇社会の、常人ではたどり着けない裏のネットワークで情報を仕入れてるんですか?」
情報屋「いや、Googleだ。高円寺のバーを検索したら、この店のサイトに行き着いた」
火口「Googleかいっ!確かに店のホームページは作ったけど、それ見て来ただけかいっ!オレが思い描く情報屋のイメージと違うわコイツ!見た目は良いんだけど、中身が伴ってない!」
情報屋「Googleで調べられる情報は、全てオレの手の中にあると言っていい」
火口「だろうねぇっ!大体の人がそうっ!Googleはお前だけの情報網じゃないからぁ!」
情報屋を名乗る男が、入口から最も近いカウンター席に座る。
情報屋「いろんな酒が置いてあるな……」
火口「吟味してる……多分めっちゃアルコール度数の高い酒をロックで注文するんだろうなぁ……でも大丈夫!こういう客のためにいろんな酒を取り寄せたし、アイスボールを作る設備も用意してる!なんでも来い!」
情報屋「メロンソーダをくれ」
火口「ソフドリっ!?そこは知る人ぞ知る、マニアックなブランデーとか注文しろよこのボケェ!お得意のGoogleで調べてよぉ!」
また入口のベルが鳴る。
別の客が入って来た。
???「店の外から読唇術で会話の内容を読み取らせてもらったが、カウンターに座ってるアナタ、情報屋なんですね」
店の入口には、黒い革ジャンを着て、年季の入ったジーパンを履いた30代中盤くらいの男が立っていた。
情報屋「いかにも。何か用かな?」
???「オレは探偵をやってましてね」
火口「探偵!?来た!これこそ期待通りの展開!マジの探偵だ!服装も『ジャッジアイズ』のキムタクそのもの!読唇術も使えるっぽいし、凄まじい修羅場を潜ってきた名探偵だこの人!間違いない!」
探偵「ある女性を探しているもんで。調べてほしいんです。金はいくらでも払います」
火口「すげぇ……何だろ?失踪者の捜索とか、浮気調査とかか?」
情報屋「私の情報料は安くないぞ。覚悟しておけ……とりあえず要件を聞こう。どんな女だ?」
探偵「身長160cm前後、やや細身ながらバストDカップ以上、髪型は茶髪のロングで結婚後は共働きOKで犬好きな、オレ好みの女性を探してるんですが、どこかにいませんか?」
火口「ナンパ目的かいっ!仕事じゃねぇのかよ!私利私欲のために来たのかよ!だったらバーなんて来ずにマッチングアプリ使えやウスノロォ!」
情報屋「すまないが、Googleでそんな女を探すのは難しい。力になれずすまない」
火口「無能だなぁ情報屋!『あなたの理想の相手が見つかる!おすすめマッチングアプリ10選』みたいな記事でも紹介してやれよ!」
探偵「やはりそう簡単には見つからないか……まぁいい。とりあえずマスター、カルピスソーダをくれ!」
火口「酒飲めバカ共!うちはバーだぞ!自動販売機で買えるような飲み物ばかり注文すんなや!」
???「ならばオレは、ウイスキーをロックでもらおうか」
店の最奥のカウンター席に男が座っている。
入口のベルは鳴っていない。いや鳴ったのかもしれないが、火口が気づかないうちに男は店に入り、カウンター席に座っていた。
黒いハットと全身を包むようなコート。帽子を深く被っていて顔は少ししか見えないが、チラリと覗く右の頬には10cmほどの大きな傷が入っている。声の感じから、年齢は30〜40代だろう。
火口「全く気配なく店に入ってきた……失礼ですが、アナタまさか……」
???「ご明察。さっきも仕事で、社会の害虫を葬ってきたばかりだ」
火口「間違いない!殺し屋だ!私腹を肥やす権力者を影で始末する殺し屋!サイレンサーの付いた拳銃でターゲットの眉間を的確に撃ち抜く、凄腕の殺し屋だろこの人!今度こそ間違いない!こういう人!こういう人に来てほしかったのよ!」
殺し屋「今日は大仕事だった。あんなにデカいゴキブリを殺るのは久しぶりだったな。依頼主も喜んでいることだろう」
火口「相当な要人を暗殺したんだ……すげぇ……本当に映画の世界みたいだ……あの、お仕事柄難しいかもしれませんが、どんなゴキブリ……つまりターゲットを始末したのか教えてもらえますか?」
殺し屋「クロゴキブリだ」
火口「クロゴキブリ……それだけ真っ黒な、闇に染まった要人だったってことですね?」
殺し屋「要人?いやクロゴキブリを始末したんだが」
火口「……え?……クロゴキブリって……すみません、アナタ殺し屋ですよね……?」
殺し屋「まぁそうも言えるかな。害虫専門の殺し屋。正しく言うなら、害虫駆除業者」
火口「殺し屋じゃねーじゃん!文字通り害虫を殺す人じゃん!最初の2人は曲がりなりにも情報屋と探偵だったけど、コイツは殺し屋ですらねーじゃん!……ちょっと待って!じゃあその右頬の傷は?敵対組織の殺し屋と戦って付いた傷とかでしょ!?」
殺し屋「いや、先々週、彼女とケンカしたときに包丁で切り付けられた傷だ」
火口「しょーもな!ていうか彼女の方が殺し屋の適正ありそうだな!ケンカで包丁持ち出すって殺意高すぎだろ!」
殺し屋「このコートの下には、もっとおぞましい傷もあるが……見るか?」
火口「見ねーよ。どうせ全部しょーもない傷だろ」
殺し屋「あー、ウイスキーのロックを注文したけど、やっぱやめておこうかな。明日はスズメバチ駆除の仕事で朝早いし。マスター、ジンジャーエールをくれ」
火口「だから酒飲めよ愚か者ども!」
入口のベルが鳴る。
20代後半くらいの、スーツを着た若い男性が入ってきた。
至って普通の、どこにでもいそうなビジネスパーソンである。
火口「もう高望みはやめよう。こういうごく普通のお客さんとの関係を作った方がいいな。いらっしゃいませ」
男性「ウイスキーの水割りをお願いします」
火口「かしこまりました。そうそう、まずお酒を飲んでもらわなきゃ。こちとら、バーやってる意味がないもん。こういうお客さんが一番いい。……ちなみにお客さん、何の仕事をされているんですか?」
男性「あまり人には言えないんですけどね、情報屋兼探偵です。自分で探偵をしながら、仕入れた情報を同業者に闇ルートで売ってるんですよ。もしその情報を表に流す輩がいたら始末する……殺し屋みたいなこともやってますね」
火口「えぇぇ……すみません、お帰りいただけますか?」
男性「……えっ!?ボク、何か失礼なことしましたか?」
火口「いや、情報屋と探偵と殺し屋が別々の人ならいいんですけど、1人の人間に全部の要素が入っているのは濃すぎるというか。ドン引きというか。過剰すぎてもはや警察に通報しなきゃいけない案件というか。お腹いっぱいなのにカツ丼を食べさせられてる気分というか。とにかく気持ちが悪い。不快です」
男性「そんな!ボクは聞かれた質問に正直に答えただけなのに!」
火口「出禁です。金輪際、うちの店には来ないでください」
客を選べるのが、自分でバーを経営するメリットだ。
<完>