私の名前はジロギン。

HUNTER×HUNTERなどの漫画考察や、怪談・オカルト話の考察、ヒトコワ話を掲載しているブログです。

【ヒトコワ】二面性

私の名前はジロギン。

 

今回紹介するのは、斉藤 康子(さいとう やすこ:仮名)さんという女性が体験した話。

約15年前、斉藤さんが中学1年生だった時のエピソード。

 

二面性

雨が降り続いていた6月のある日。

斉藤さんは傘を差し、学校から歩いて帰宅していた。

普段は部活があり、帰宅は夕方〜夜になるのだが、この日の部活は休み。暗くなる前に家路についた。

 

通学路の途中に小さな丁字路がある。

人通りは少ないものの、よく車が通る道で、交通事故が多いことで有名だった。

特に雨の降る日は歩行者が傘を差しているので視界が狭くなり、事故率も上がりやすかった。

 

斉藤さんは車の往来に注意しながら、丁字路を通り抜けた。

その直後、ドンッという鈍い音と衝撃が体に伝わってきた。

 

振り返ると、10mほど離れたところに黒っぽい軽自動車が停まっている。

しかし、おかしい。

斉藤さんから見て左側のヘッドライトがやや上向いている。

タイヤの下に何かが挟まっているようだ。

 

よく見ると、そこにはおじいさんがいた。

仰向けで、胸のあたりまでタイヤがのしかかっている。

おじいさんが持っていたと思われる傘はタイヤに巻き込まれ、骨がバキバキに折れている。

斉藤さんには、白髪の頭と肩だけが見えている状態だった。

 

生きているのか死んでいるのかわからない。

どちらにせよ大変な事態であることには変わりない。

斉藤さんはカバンからケータイを取り出した。

 

その瞬間、おじいさんの頭が動いた。

おじいさんの頭はゆっくりと回転し、斉藤さんの方を上目遣いでギョロリと見た。

 

「たす…たすけ…て…お…もい…重い…」

 

命の火が消えかかりそうな老人の表情は、斎藤さんに恐怖心を抱かせた。

死に際の人間を見るのはこれが初めて。怖いが、そうも言ってられない。

救急車を呼ばなければおじいさんは助からないだろう。

 

震える手でケータイを開こうとすると、車の運転席の扉が開いた。

中から50代くらいの女性が降りてきた。

雨がかかるのが嫌だったのか、目を細めながら空を見上げ、折りたたみ傘を差す。

女性は車の前に回ると、おじいさんの様子を確かめた。

 

『またやっちゃったか……死んでる?生きてる?……生きてるか。大丈夫か。』

 

女性は独り言をつぶやくと、キョロキョロと周りを見渡した。

その場には女性とおじいさん以外に、斉藤さんしかいない。

斉藤さんは女性と目が合った。

女性は斉藤さんの手にあるケータイに目を移すと、呆れたような表情を浮かべた。

 

『あんたさぁ救急車呼ぶつもり?状況わかってんのぉ?』

 

強い口調で斉藤さんに話しかけてきた。

 

「いや…でもあの…」

 

『学校で習ったのかもしれないけどさぁアンタみたいな事情も知らないガキがでしゃばらないでくれる?さっさとどっか行きな!救急車は私が呼ぶから!』

 

女性の顔は、害敵を威嚇する野犬のような形相に変わっていた。

女性に対して恐怖を感じた斉藤さんは、すぐにその場を後にした。

が、帰るふりをして女性の死角になる離れた場所から事故現場を見ていた。

あの女性が本当に救急車を呼ぶか怪しかったからだ。

 

数分後、現場に救急車とパトカーが到着。

おじいさんは救助され、運ばれていった。

救急隊の作業中、女性は警察官に事情を説明していた。

何を話しているのかまでは聞き取れない。

しかし女性の様子は、さっき斉藤さんに向けられていたものとは一変。嗚咽し、その場に膝をついて泣き崩れてしまった。

 

女性の変わりぶりに当時は混乱した斉藤さんだったが、大人になった今ならわかる。

女性は、少なくとも二つの側面を持つ人間だったのだ。

野犬のような形相と、涙を流し泣き崩れる様子。どちらが本心だったかわからない。

感じの良い女性には思えなかったが、最後に見せた涙こそ彼女の本心だったと願いたい、と語ってくれた。

※ご本人や関係者に配慮し、内容を一部変更しています。

 

老人を思う涙か、保身の涙か

轢かれた老人が生きていた場合、女性は「運転過失致傷」、亡くなっていた場合は「運転過失致死」の罪に問われると思います。

 

裁判では被告人(女性)が救護措置をとったかどうか、反省の色を示しているかどうかが量刑に関わるでしょう。

 

この女性が見せた涙は、老人のことを思って流したものだったのでしょうか。

あるいは、裁判で有利になるよう保身のための涙だったのでしょうか。

今となってはわかりません。

 

とりあえず言えることとしては「人間にはあらゆる側面があり、使い分けながら生きている」ということです。