父親が運転する車に乗り、松山 奏《まつやま かなで》は怪奇町《かいきちょう》に引っ越してきた。仕事で多忙だった父が鬱病と診断され、長期療養が必要となった。仕事を辞め、しばらくは父の実家で過ごすことになり、両親の出身地である怪奇町へ引っ越すことが決まったのだ。
奏は東京で生まれ育ったため、怪奇町にはあまり馴染みがない。年に一度、祖父母に会う時にだけ訪れていた程度だ。名所があるのか、名産物が何なのかなども知らない。
祖父母の家まであと20〜30分ほどのところで、車内の匂いが変わった。車酔いしそうなどんよりとした匂いが、甘い匂いに変わったのだ。
父か母がジュースでも飲んでいるのかと思ったが、その様子はなく、「夜までに到着できそうで良かった」などと話している。
「なんか、いい匂いしない?コーラみたいな匂い。怪奇町ってこんな匂いしたっけ?」
奏が両親に尋ねたが、2人ともそんな匂いはしないと言う。奏は自分の鼻がおかしくなったのかと思った。
匂いはどんどん強まる。車内でコーラをぶちまけたとしか思えないような匂いになった。
匂いのピークを迎えたのは、ある神社の前に差しかかった時だった。周りを木々に囲まれ、朱色の鳥居がそびえる神社。鳥居のすぐ右側に古い井戸のようなものが見えた。
父に聞いたところ、ここは「怪奇神社《かいきじんじゃ》」というらしい。怪奇町に帰る時は毎回通っていたが、以前は全く気にならなかったのに今回は興味を惹かれた。この匂いのせいだろう。
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夕方6時頃、祖父母の家に到着。服や寝具など、必要なものだけを車から家に運び、本格的な荷解きは、明日行うことになった。
奏は翌日から「怪奇中学校」に通うことになっている。新しい学校に行くのは緊張するが、こういうのは早いうちに解消できた方がいい。前の中学で着ていた学ランがそのまま使い回せるのは救いだった。
母と祖母が夕食の準備に取り掛かってている間、奏は父と近所を散歩することにした。体を動かすことは父の療養にも効果的だと思ったからだ。
というのは建前。奏はさっきの匂いが気になっていた。今もあの甘い匂いが漂っている。おそらく匂いの原因はさっきの神社にあるはず。怪奇町で育った父なら神社のことも知ってるのではないかと思い、一緒に神社の方まで行くことにしたのだ。
匂いを頼りに、奏は見知らぬ土地にも関わらず父をエスコートするように歩く。祖父母の家から徒歩10分ほどで、怪奇神社に着いた。間違いなく匂いはこの神社からしている。
しかし、祭りをやっている様子もなければ屋台も出ていない。人の気配すらない。
奏は警察犬のように鼻を動かし、匂いの発生元を探した。どうやら、鳥居の近くにある井戸から発せられているようだった。中央に穴が開くよう石で作られた四角形の井戸。穴は一辺が一メートルほどで、人間一人がギリギリ入れるくらいの大きさ。井戸を覆うようにネットがかかっており、今は使われていないようだ。
匂いは井戸の穴から漂ってくる。奏は井戸の中を覗き込んだ。吸い込まれそうな感覚に襲われる。
「父さん、この井戸のこと何か知ってる?さっきの匂い、この井戸からするんだけど。」
「いや、わからないなぁ。父さんが子供の頃からあるけど、当時から使われていなかったし。昔の人が飲み水を汲んでいたものかもしれないな。」
「神社って神聖な場所じゃない?もしかしたらこの井戸の水で手を清めてたのかも。」
「お前の言う匂いってのは、井戸の中に住む神様の体臭かもな。」
「ずいぶん美味しそうな神様がいたもんだね。」
「『八百万の神』っていうくらいだからな。美味い神がいても不思議じゃない。」
奏と父は神社の拝殿に向かって手を合わせ、家路に着いた。