小石川 清人(こいしかわ きよと)は、西同(にしどう)中学の数学教師。年齢は26歳。独身。教師としてはまだ未熟さの残る青年だが、若さゆえか、生徒の母親たちからは高い人気を誇っている。
小石川は教職員用の更衣室でジャージに着替え、顧問を担当している男子ソフトテニス部の活動に向かう。
小石川自身、中学高校時代にソフトテニスに打ち込み、高校時代は団体戦で県大会ベスト4まで勝ち進んだ。学生時代を思い出しながら、顧問として熱心に生徒たちを指導している。
校庭からは、ゴム製のボールを打つポンッポンッという音が聞こえる。
小石川が校庭の一角に作られたコートに到着すると、部長が「集合!」と大声を張り上げた。
練習を始めていた、体操着姿の1〜2年生約30名が小石川のもとに一斉に集まる。3年生は引退済みだ。
小石川「次の大会まであと2週間切ってるから、今日以降は実践をバシバシやっていこう。1年生は基礎練、2年生はコートでサーブレシーブ、終わったらゲーム形式をやる」
生徒たち全員が「はいっ」と返事をする。
「先生、ちょっといいですか?」
手を挙げながら言葉を発したのは、2年生の栗田(くりた)だった。
部長・副部長などの役職にはついておらず、あまり目立つタイプではないが、ソフトテニスの実力は高く団体戦のメンバーに選ばれている。
小石川「どうした?栗田。体調悪いのか?」
栗田「いえ、僕、このソフトテニス部を変えたいと思ってるんです」
小石川「……そうか、いや、何を言い出すかと思ったら、そういうことか。確かにな、常に変化していくことは重要だな。いつもと同じ練習をやっていても限界が来てしまう。変化、大切だな。お前がそこまで部のことを考えてくれてたとは……」
栗田「いや、そうじゃなくて、僕、このソフトテニス部をラグビー部に変えたいんです」
小石川「は?」
小石川は鳩が豆鉄砲、いや豆マシンガンを食ったような表情を浮かべた。
栗田「ラグビーです。アーモンドみたいな形のボールをパスしながら相手の陣地まで運んで……」
小石川「いやラグビーは知ってるよ!そうじゃなくて、何を言ってるんだってこと!うちのテニス部を……ラグビー部?わけが分からないんだが……?」
栗田「いろいろ考えて、やるならラグビーの方がいいと思ったんですよ、ソフトテニスより。だって何ですか?ソフトテニスって。本来テニスってハードもソフトもなくて、黄色いボールを打つあのテニス以外ないでしょ?世界中の人々がその認識なんじゃないですか?ソフトテニスって……マイナー過ぎません?」
小石川「お前なぁ……確かにそうかもしれないけど、競技としてソフトテニスも認められてるんだから、そこに貴賤はないだろ!」
栗田「でも事実、ラグビーの方が有名ですよね?高校にも大学にもラグビー部ってあるし、社会人になっても『ラグビーやってました』って言えた方がウケも良さそうだし、話のネタにもなると思うんですよ。ソフトテニスはマイナー過ぎるというか、知られてなさ過ぎて存在してるかどうかもおぼろげというか……」
小石川「お前……栗田!お前そんな気持ちでテニスやってたのか!?」
栗田「テニスって言わないでください。ソフトテニスです」
小石川「どっちでもいいだろっ!論点はそこじゃなくて、ラグビーがやりたいなんて意味わからないことをお前が言ってることと、テニスに対してやる気のない発言をしてることにオレはキレてるんだっ!」
栗田「昨日まではソフトテニスのやる気あったんですけど、テレビとか見ててもソフトテニスの話題って取り上げられないし、でも、ラグビーはよく取り上げられるので、やるならラグビーの方がいいなって、今日思い始めたんです」
小石川「じゃあ百歩譲って、ラグビー部にしたとしてな、オレじゃ教えられないんだよラグビーは!ラグビーやったことねーから!」
栗田「教えてくれなくて大丈夫です。自分たちで調べて練習するので。だから先生は名ばかり顧問になっていただいて」
小石川「名ばかり顧問て、それ先生を目の前にして言う言葉か!?揶揄するための言葉だろ!」
栗田「でも先生って、もう限界だと思うんですよ。今もラグビー教えられないって決めつけて。学ぶ意欲がないというか、考えが凝り固まってるというか。その点、僕たちってこれからいろんなことを吸収していく学生なんで、どんなことでも学べると思うんです。まだいくらでも可能性が残されてると思うんです」
小石川「限界扱いされたーっ!オレもまだ26だから伸びしろあると思ってたんだけど!まぁ、中学生からしたら、自分の倍は生きてる人間なんて成長が止まってるも同然か?」
栗田「お願いします!だからラグビー部に変えさせてください!」
小石川「そんならよぉ!お前がラグビー部作ればいいだろう!ソフトテニス部を変えるんじゃなくて!」
栗田「ゼロから組織を作るのって大変だし時間かかると思うんですよ。部員集めて、学校に申請して、他の部活と練習時間の調整して……でも既存の部活を母体にすれば、そういった組織づくりのステップを一気に解決できるんです」
小石川「否定できんっ!暴論なのだけど組織を作る難しさを理解してる発言!この子中学生?」
栗田「しかもラグビーって15人も試合に出られるんですよ。ソフトテニスは団体戦でも参加できるのは6人ですよね。倍以上のメンバーが一軍として試合に出て、思い出を作れるって考えたら、部活としてもラグビーやった方がいいんじゃないかなって。野球でも9人、サッカーでも11人ですけど、ラグビーならもっと多い15人ですよ」
小石川「合理的ーっ!部活ってのはほとんどの子にとって思い出づくりという名の、勉強からの現実逃避だからっ!教師のオレとしては勉強させたいけど、なるべく多くの子に良い思い出も作ってあげたいーっ!だから顧問やってるーっ!」
栗田「お願いします!ラグビー部にさせてください!」
「おい栗田っ!いい加減にしろよっ!」
横から怒鳴るように声を挟んだのは、宮本(みやもと)だ。宮本は団体戦のメンバーにこそ入っていないが、人一倍努力家で、練習にも毎日休まず参加している。小石川としては、特に頑張ってほしいと思っている生徒の一人だ。
宮本「オレはテニスがやりたくてテニス部入ったんだよ!」
栗田「テニスじゃなくてソフトテニスね」
宮本「うるせぇよっ!オレは『テニスの王子様』読んで越前リョーマみたいになりたくてソフトテニス始めたんだよ!ラグビーがやりたいわけじゃねぇ!」
小石川「いいぞ!頑張れ宮本っ!論破しろっ!栗田を論破しろっ!」
栗田「越前リョーマになりたいなら、そもそもやるべきはソフトテニスじゃなくて硬式テニスだし、その、顔面がリョーマとかけ離れ過ぎてるというか、全く『テニスの王子様』読んでない人なんだなってことがよく分かる」
小石川「負けたっ!宮本論破されたっ!越前リョーマに憧れてソフトテニス始めた子の大半に突き刺さる理屈で負けたっ!」
宮本「……いいだろうが夢くらい見たって!」
小石川「よしっ!宮本!お前はまだ折れちゃいない!精神だけは越前リョーマだ!精神だけはっ!」
栗田は宮本にタックルを決める。
勢いよく弾き飛ばされ、お尻から地面に倒れ込む宮本。
栗田「宮本はソフトテニスの団体戦メンバーにもなれてないってことは、ソフトテニスの実力も僕未満ってことだし、こうしてタックルでも倒されてるってことは、ラグビーの才能もなさそうだし、今からでも遅くないから他の部活に入った方がいいかもしれない」
小石川「格の違い見せつけたーっ!確かに栗田の方がテニス上手いっ!オレも認めてるっ!しかもタックルも上手いからラグビーでも即戦力になりそうーっ!オレラグビーのことよく知らんけどーっ!」
宮本「ぐっ……びすっ……ひっ……ひんっ……このど畜生めがっ!」
宮本は涙を流しながらどこかへ走り去っていった。
栗田「……でもまぁ、僕も提案が急過ぎました。いきなりラグビー部に変えるなんて難しいですよね。だから先生、明日の部活の時間までに決断をお願いします」
小石川「変わらんーっ!今日でも明日でも急なことには変わらんーっ!」
この日の練習中、小石川は今まで感じたことのない、白い感情と黒い感情がミキサーで混ぜられたような気分に包まれていた。
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翌日
小石川は昨晩ほとんど眠れなかった。
栗田による、突然の提案。
本来なら即却下だが、栗田の言い分も分からなくもない気がしないでもない。
宮本以外の部員が声を上げなかったことからも、もしかしたらほとんどがソフトテニスよりラグビーをしたいのかもしれない。
小石川が決断すべき時間が、刻一刻と迫ってくる。
そして、部活の時間を迎えた。
水分を全て吸い取られ、痩せこけたミイラのような表情でコートに向かう小石川。
部長の「集合!」という声が響く。
小石川のもとへ生徒たちが集まってきた。
小石川が、縫い付けられたように昨日から閉まりっぱなしだった固い口を開く。
小石川「……昨日、栗田からあったラグビー部の話だが……オレとしては……その……えっと……アレ?」
生徒たちを見回すが、当の栗田の姿がない。
小石川「栗田……おい栗田はどうしたっ!?アイツ、昨日散々言っておいて、今日休みかっ!?どうなってんだよっ!?オレの錯覚だったとかないよなっ!?」
生徒たちが一斉に首を横に振る。
動揺する小石川だが、一方でその心には、言葉にできない安堵感も生まれていた。
栗田がいないなら、今日はとりあえず決断しなくてもいい。
しかし疑問は残る。
なぜ栗田は突然、ソフトテニス部をラグビー部に変えようと言い出し、姿をくらましたのか……
小石川「誰か、栗田のこと聞いてないか?オレも休みの連絡なんて受け取ってないし……」
宮本「……めました」
小石川「……は?」
宮本「殺して埋めました」
<完>