坂下 雅(さかした みやび)は、腕立て伏せ300回を終えた。
小学校のときに読んだ『新テニスの王子様』に登場する「お頭」こと平等院鳳凰先輩に憧れて入部した女子ソフトテニス部。
本当は硬式テニスがやりたかったけれど、雅が通える地域に硬式テニス部のある中学校はなかった。
仕方なく入ったソフトテニス部。それでもテニスができるだけで楽しい中学生活になるだろうと思っていた。
しかし雅のそんな淡い妄想は、空気を入れまくったソフトテニスのボールのように、入部と同時に弾け飛んだ。
竜崎「終わったら素振り3000回!ほらチンタラしてっと日付が変わっちまうよ!」
雅たち1年生の教育担当である2年の竜崎 育子(りゅうざき いくこ)の怒号が、校庭の片隅に響く。
雅が入った『南ミサンガ第三中学』女子ソフトテニス部の練習は、想像を絶するほどハードだったのである。
仮入部のときは30名くらいいた1年生だが、本入部後に残ったのは雅を含めたった6人。
練習のつらさに、ほとんどが辞めてしまったのである。
花江「竜崎先輩……ちょっと休憩を……これ以上は死んじゃいます……」
押切 花江(おしきり はなえ)は雅と同じ小学校出身で、1年A組のクラスメイト。休み時間は2人で自由帳に絵を描いて遊ぶ、いわゆる親友だ。
最近は、2人で試合に出る将来を思い浮かべながら絵を描いている。
花江も『新テニスの王子様』のファンで、毛利寿三郎に憧れて女子ソフトテニス部に入った。
元々それほど運動が得意なタイプではなかった花江。ハード過ぎるソフトテニス部の練習についていけているだけでも奇跡だ。
竜崎「おい押切ぃ……お前ギブアップする気じゃねーだろうなぁ?ウチらが1年のときはこんなもんじゃなかったかんねぇ!恵まれてると思いなぁ!」
その場にいた全員が「出た出た」と思った。竜崎の口癖「ウチらが1年のときはこんなもんじゃなかった」。
竜崎「今の3年はさぁ、『みミさん(南ミサンガ第三の略)』で史上初めて地区大会3位になって県大会に出場したガチレジェンドだから!そのために厳しい練習をしてきたし、ウチら2年もそれについてきたの!マジでこんなもんじゃなかったから!先輩の残した功績を引き継ぐために、アンタらも死ぬ気でやれよぉ!分かったら返事ぃっ!」
雅たち「はいっ!」
竜崎「素振りが終わったらスクワット500回!終わったらコートの片付けをして、グラウンド150周!家までランニングで帰ったら、腕立て200回、腹筋200回、背筋200回!夏までボール打てると思うなよなぁ!」
雅たち「はいっ!」
こうして雅たちは、練習に励み続けた。
ーーーーーーーーーー
1年後
夏の日差しが降り注ぐテニスコートに、ゴムボールを弾く音が響く。
雅たちは2年に、竜崎は3年になっていた。
コートにやってきた顧問の榊 仁(さかき じん)。
榊は音楽教師で、年齢は50近いが気品溢れる佇まいと毛量の多さから「イケオジ」と女子生徒に人気の先生である。
しかし女子ソフトテニス部員は例外。彼女たちにとって榊は「勝利を追求し、弱者は絶対に試合で使わない冷徹な指導者」なのである。
榊のもとに、女性ソフトテニス部員たちが一斉に集まる。
榊「すでに知っていると思うが、団体戦の夏の地区大会が来週に迫った。お前たちの努力が試される重要な大会だ」
ソフトテニス部全員「はいっ!」
榊「オレは弱いヤツは使わない。地区大会の初戦から、最強メンバーで挑む。では、これより試合のレギュラーを発表する!」
ソフトテニスの団体戦は、ダブルス3試合で行われる。
つまりレギュラーとして試合に出場できる選手は6人だ。
榊「まずはダブルス1。初戦の勝利はチーム全体の指揮を上げる。ダブルス1は……2年・水川(みずかわ)!同じく2年・澤本(さわもと)!」
水川・澤本「はいっ!」
水川と澤本は、雅と同じく厳しい練習を耐え抜いた同級生。
2人ともこの1年でメキメキと力をつけ、先輩たちを追い抜いて見事レギュラーの座を勝ち取った。
水川と澤本は声が大きく、元気にプレーする。まさにチームを盛り上げる団体戦の1番手に打ってつけのペアといえるだろう。
榊「続いてダブルス2。団体戦の勝敗を握る重要なペアであり、チーム最強のペアだ。ダブルス2は……2年・坂下!同じく2年・押切!」
雅・花江「はいっ!」
先輩の竜崎に理不尽さを感じながらも、練習に食らいついた雅と花江。
2人の成長は特に目覚ましく、先輩たちを含めても最も強いペアになっていた。
自由帳に描いていた2人で一緒に試合に出るという夢が、叶った瞬間でもある。
榊「最後にダブルス3!団体戦における最後の砦だ。ダブルス3は……2年・野口(のぐち)!同じく2年・林(はやし)!」
野口・林「はいっ!」
野口と林は、雅たち2年の中では口数が少ない方だが実力は確か。プレーに派手さはないが安定感がある。最後の砦を務めるにふさわしい2人だろう。
蓋を開けてみたら、雅の同期6人が団体戦のレギュラーになっていた。
竜崎「榊先生!納得いきません!」
竜崎が榊の采配に異を唱える。
この大会で引退となる竜崎にとって、レギュラー枠を全て後輩に奪われたのが気に食わなかったのだろう。
竜崎「私たち3年はこれが最後の大会です!2年生には来年もあります!なら私たち3年を優先して起用してください!」
榊「オレは弱いヤツは使わない。お前たち3年は部内戦で2年に負けた。その結果だ」
竜崎「だとしても、3年になってから1試合もせず引退だなんて……なぜこんな仕打ちをするんです先生!私たち3年に思い出を作らせてください!」
榊「お前が鍛え過ぎなんじゃぁぁあ!」
榊の怒号の直後、コートが静寂に包まれた。
竜崎「……え?」
榊「竜崎、お前が後輩たちに課していた練習メニューを言ってみろ」
竜崎「グラウンド200周、腕立て300回、腹筋300回、背筋300回、素振り3000回、スクワット500回、ストローク練習2時間、ボレー練習2時間、サーブ練習3時間、試合形式500ゲーム、終わったらコートを片付けてグラウンドを……」
榊「強くなるわそりゃ!やり過ぎじゃあ!お前のせいで、ゆるめだったウチの部活も学校で一番ハードな部活になっちまったよ!オレのこの冷徹な指導者キャラも、今の部に合わせて作ったキャラだからな?お前らが1年の頃は、ソフトテニスにほとんど興味のない優しいおじさん先生だっただろ?」
竜崎「……いや、ウチらが1年のときはもっと厳しくて……」
榊「気のせいだって。幻覚だって。隣の芝は青く見えるだけだって。全然厳しくなかった。むしろぬるかった。ぬるま湯。なのにお前のせいで……押切を見ろ!入部当初はガリガリだったのに、今じゃ100%中の100%戸愚呂弟みたいなガタイになってるじゃねーか!」
花江の肉体は、1年前よりも8回りくらい大きくなっていた。
身長203cm、体重153kg。
ハードなトレーニングを乗り越えた結果、常人離れした肉体になってしまったのである。
そのパワーは凄まじく、花江のサーブ速度は平均280km/h。
このサーブだけでレギュラーの枠を勝ち取ったといってもいい。
花江「1年の頃、『竜崎先輩は何でこんなに厳しくするんだろう』と疑問でしたが、今では感謝の気持ちしかありません!こんな肉体にしてくれて、ありがとうございます!」
榊「押切だけじゃない!2年を見ろ!コイツらのガタイ、ソフトテニスの団体戦メンバーじゃない。もはやZ戦士だ!超サイヤ人だ!」
花江だけでなく、雅たちもまたゴリゴリの肉体を手に入れていた。
雅は筋肉のつけ過ぎでユニフォームが破れ、その度に買い直し、今着ているので6着目。サイズはXXXXXLだ。
竜崎「そんな……私がやってきたことが……私の居場所を奪うことになっていたなんて……」
地面に膝をつき、うなだれる竜崎。
榊は竜崎の側に屈み、竜崎の肩に手を置く。
榊「竜崎、お前は先輩からやられたことを後輩にも強いた。お前は一種の伝統を受け継いだつもりだったのかもしれないが、考えもなく受け継いだ伝統は悪習となり腐る。受け継ぐ者たちの適性を見て、変化を加えなければ、伝統は関係者全員を苦しめる呪縛に過ぎないのだ」
そして榊の表情が優しく緩む。
榊「だが竜崎よ。お前は選手ではなく、選手を育てるコーチとしての才能がある。その才能が、今のZ戦士のような2年生たちを生み出した」
竜崎「……先生……」
榊「お前は後輩たちが試合に勝てるよう、バックアップしてやってくれ!それがお前の、本当の居場所だ!」
雅たち2年生「竜崎先輩!お願いします!」
竜崎「みんな……」
その後、雅たちは地区大会、県大会、関東大会の全てで優勝。
全国大会ではベスト4という好成績を残したのだった。
<完>