常本 並定(つねもと なみさだ)は、都内のIT企業に勤める23歳の男性会社員。半年ほど前に大学を卒業し、現在の会社に就職した。
仕事を終えた常本はスーツ姿のまま、同僚の竿長 茎太(さおなが けいた)とともにオフィス近くの銭湯に向かう。
竿長は常本の同期社員。先日、一緒に昼ご飯を食べていたとき、ふとした会話から2人とも銭湯巡りが趣味だということが分かり、近場の銭湯に行く約束をしたのだ。
会社の最寄駅とは反対方面、閑静な住宅街の中にある昔ながらの銭湯。
少しの振動で崩れてしまいそうな木造建築に、空高く伸びる煙突が長い歴史を感じさせる。
入口の扉を開くと、齢80は超えてそうなガリガリの老爺が番台にちょこんと座っていた。
常本も竿長も、こういった古めの銭湯を好んで巡る。湯船に浸かることだけでなく、古風な銭湯を通じて自分たちが生まれる前の「昭和の空気」に触れることも楽しみなのだ。
脱衣所でスーツを脱ぎ始める常本と竿長。
常本「まさかお前も銭湯好きだなんて思わなかったよ。ほら、オレらの年代で銭湯好きって珍しいだろ?」
竿長「まぁな。最近は家の湯船にも入らず、毎日シャワーだけで済ませる人も多いって聞くし」
常本「確かにシャワーだけでも体は洗えるけどよぉ、都会の喧騒に塗れ、仕事というストレスに晒された心まで洗い流すには、銭湯が一番だよな」
竿長「いや何言ってるのかよく分からんけども」
竿長がズボンを脱ぎ、トランクスを下ろす。
常本「……おい……さ、竿長……何だよお前それ……」
竿長「あん?どうした?突然青ざめた顔して?」
常本「マンモスだ……マンモスがいる!!竿長の股ぐらにマンモスがっ!!絶滅したんじゃなかったのか!?いや、マンモスを復活させる研究が進められてると聞いたことはある……しかし、もうここまで進んでいたのか!?」
竿長「おい何言ってんだ?マンモス?そんなものいねーよ」
常本は自分の目を擦る。
そこには、2本の足の付け根からぶら下がる、竿長の竿しかなかった。
常本「……ああ、そうだよな。マンモスがいるわけない。いやほら、あまりのサイズ感にマンモスかと……」
竿長「何変なこと言ってんだ?早く入ろうぜ!」
ーーーーーーーーーー
常本も服を脱ぎ終え、竿長の後を追うように風呂場へ向かった。
夜遅めの時間であるせいか、風呂場には常本たち以外に誰もいない。
常本「おっ!ラッキー!貸切じゃん!」
竿長「おいおい、誰もいないからっていきなり湯船に入るなよな」
常本「分かってるって!まずは体を洗ってから。どんなときでもマナーをしっかり守るのが真の銭湯ファンだ」
常本と竿長は、風呂場の隅に山積みされているお風呂用の椅子を1つずつ取り、隣り合わせでシャワーを使い始めた。
常本「お前、頭から洗う派?体から洗う派?オレは頭派」
竿長「オレは体からだな」
竿長は備え付けのボディソープを手のひらに2プッシュすると、股ぐらに塗りたくり始めた。
竿長「オレ、股ぐらの面積が人より広いんだよ。だからこう、泡立て器としても使えるんだよな」
泡がモコモコと広がり、竿長の竿を包む。
常本「イ……イエティだ……!雪山に棲む怪物イエティだ!!こんな人里にまで降りてきたのか!?というか日本にいたのか!?しかも竿長の股ぐらにぃ!?」
竿長「おいどうした!?イエティ?何言ってんだよ!」
常本は目を擦る。
そこには泡に塗れた竿長の竿があるだけだった。
常本「す、すまん。見間違えだ。ジャンプーが目に入ったのかもな」
ーーーーーーーーーー
体を洗い終え、湯船に浸かる常本と竿長。
少し熱めのお湯が血液を温め、全身を巡る。
体が芯から温まるとは、こういうことなのだろう。
仕事で体を酷使してきた2人にとって、銭湯の湯船はまさに天国へ誘うノアの方舟だ。
常本「やっぱ最高だなー!毎日でも来たいくらいだぜ」
竿長「ほんとだな。まぁそれだと金がなくなっちまうけど」
常本「しかも今日はオレたちしかいないってのも良いよな!他の客に気を遣うことなくストレスフリー!」
竿長「それな。マジ最高!オレ、ちょっと泳いじゃおうかな〜?」
常本「おいおいガキかお前?しかもここの湯船、泳げるほど広くねーぞ」
竿長「もちろんクロールだのバタフライだのはやらねーよ。ちょっと仰向けになって浮かぶだけさ」
常本「へぇー、できるの?オレ、カナヅチだから浮かねーんだよなぁ」
竿長「舐めんなよ。オレはこう見えて、高校のとき水泳部だったんだ。しかも背泳ぎで県大会のベスト4まで行ったんだぜ」
そう言うと、竿長は湯船に浸かっていた足を水面まで上げ、水平に浮かび始めた。
幸運なことに、竿は水面に上がって来ない。
常本はホッとした。
???「えーめっちゃ久しぶりなんだけどぉ!銭湯!」
???「私もー!っていうか、チエってお嬢様だから、こういうとこ来たことすらないでしょー?」
チエ「バカにしないでよ!何回もあるよ!そういうサリカはどうなの?」
サリカ「私はこれで126回目」
チエ「ちゃんと数えてんの!?キモッ!」
湯船から向かって右側にある壁の向こうは、女湯だ。壁の上部は敷居がなく、女湯から声だけが聞こえてくる。
女湯にチエとサリカという女性が入ってきたようだ。声の感じからして、常本たちと同じくらいの年齢だろう。
悪いことをしているわけでもないのに、つい静かにしまう常本と竿長。
サリカ「つーかチエ!アンタいつまで体にタオル巻いてんの!?もういいじゃん取りなよー!」
チエ「いや恥ずかしいからー!サリカといえど見せられない!」
サリカ「いいでしょ!うちらの仲なんだからさぁー!ほら取って!早く!」
チエ「ちょ、ちょっと!いやぁん!」
サリカ「……モ、モスマン……?蛾の怪物モスマン!!??伝説のUMAがチエの体にぃぃぃ!?」
チエ「モスマン!?何言ってんのサリカ?私の体、何か変?」
サリカ「……えっ、あっ、いや、ゴメン勘違いしちゃった。てっきり巨大な蛾人間・モスマンが出たかと…...」
チエ「ちょっ、マジキモいんだけどやめてー!」
女湯から響く声に、つい聞き耳を立ててしまう常本と竿長。
常本「……なんか、興奮するよな、こういうシチュエーション」
竿長「ああ……男の性ってやつだな……やべぇ!」
水に浮かぶ竿長の竿が、水面から鎌首をもたげる。
常本「……ネ、ネネネ、ネッシーだ……イギリス・スコットランド北部にあるネス湖の巨大水棲生物ネッシーが出たぞぉぉぉっっっ!!!」
ーーーーーーーーーー
銭湯を後にし、帰路につく常本と竿長。
竿長「いいお湯だったなぁ〜。空いてるし、あの銭湯穴場かも。また今度行こうぜ!」
常本「……確かにいいお湯だったが、今度からは1人で行ってもらえるか?……心が保たん」
竿長はすっかりリラックスできた様子だが、常本には言葉にならない疲労感が残った。
会話をしながら夜道を歩く2人の目の前を、1匹の茶色いミニチュアダックスフントが横切った。
首輪はしていないし、飼い主らしき人も見当たらない。
竿長「おい!ミニチュアダックスフントの野良犬だぞ!オレ初めて見た!レアだな!どこかの家から逃げてきたのかな?」
常本「いや、オレはさっきまであんなのより凄まじい珍獣を見てきたから、全く心が動かんよ」
ミニチュアダックスフントは常本と竿長の方に顔を向けた。その顔はどう見ても50代後半の人間のオジサンだ。
竿長「人面犬……?人面犬だぁ!!!オレの見間違いじゃないよな!?ミニチュアダックスフントの人面犬!!!!」
常本「ああ、オレにもしっかり見えてる。あれはミニチュアダックスフントの人面犬だな」
人面犬は口を開く。
人面犬「おい小僧ども、オレを見たからって幸運だなんて思うなよ。むしろオレは不幸を運ぶUMAだぜ、けっへっへっへ……帰り道、背後に気をつけなぁ!!」
常本はゆっくり人面犬のもとへ近寄る。
常本「おい犬っころ。たかだか人の顔をした犬なんて何も怖くないんだよ。オレは、お前なんかとは比較ならない伝説のUMAを、この夜だけで3頭も見てきた……そう、テメェなんぞ、こんな風に一蹴できるくらいの巨大な生物たちをなぁっっっ!!」
常本は人面ミニチュアダックスフントの腹部を蹴り上げた。
後日この犬の飼い主が見つかった。
犬が腹部を負傷していることに気付いた飼い主は、警察に相談。
警察が近隣への聞き込みや防犯カメラの録画データの調査などを行ったところ、犬を蹴り上げる常本が確認され、常本は1カ月の出勤停止処分をくらうことになった。
<完>