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菊門 春美(きくかど はるみ)は映画館に入り、予約していたF-11の席に座った。
売店で購入したコーラのLサイズを、右手側のドリンクホルダーに置く。
本当は今日、会社で残業してやるべき仕事があった。しかも新卒で入社してまだ2カ月目の春美にとって、先輩社員たちが残業をしている中帰宅するのは少し気が引けた。
しかし今日だけは早くに退社する必要があった。なぜなら、春美の大ファンである俳優・間羅村 大(まらむら だい)が主演の映画『バルサミコ酢が止まらない』の公開日だから。
間羅村 大は今年で45歳になるベテラン俳優。長年のキャリアで身につけた演技力と、年を感じさせない若々しさで、幅広い年齢層の女性から人気を集めている。
春美が間羅村 大のファンになったのは10年前。あるドラマに主演しているのを見てからだ。
それ以来、間羅村が出演する映画・ドラマ・舞台・バラエティ番組・CMなどを全て見るようにしている。筋金入りのファンだ。
開演時間になり、館内が暗くなる。
だがここからが長い。近いうちに公開される映画の予告が流れる。
この予告を見て別の作品に興味を引かれることもあるが、特別楽しみにしている映画の前に流れる予告は、校長の話並みに長い。
春美の心境としては「早く間羅村 大を見せろこのブタクズ三流映画どもが!」という感じだった。
予告が終わり本編が始まる。
いきなり画面に大きく、間羅村 大の顔が映る。
序盤から、春美にとっては大興奮の展開だ。
映画が始まって3分ほど経ったころ、スクリーンの右横にある扉が開き、人が入ってきた。
開演時間に間に合わなかった観客だろう。
映画を映画館で見ることのメリットは、自宅では設置不可能な巨大スクリーンで見られることや、音質が良いことなどがある。
一方で、遅れて入ってくる観客が必ず一定数いて、集中を乱されることがデメリットだ。映画を見ること自体は好きな春美だが、映画館で見ることは正直苦手である。
しかも途中で入ってきた観客は、あろうことか春美の右隣の席、F-12に座った。
自分の視界に入らない席に座ってくれれば気にすることもなかっただろうが、隣の席に座られると「途中から入ってきて自分の集中を乱したブタのエサ以下の残飯野郎」という意識が脳内に残り続ける。
チラリと横目で隣の客を見る春美。しかし、暗くて顔は見えない。息遣いや何となく感じる体格から、男性、しかもオッサンと呼ぶべき年齢の男性であろうことは分かった。
映画が始まって10分ほど経った。
春美はコーラを飲もうと、右手をドリンクホルダーへと伸ばした。
その瞬間、右隣のオッサン(仮)が春美のコーラを手に取り、ゴクゴクと飲み始めたのだ。
買ってからまだ一口も飲んでいない、新品のコーラだったのに。
オッサン(仮)はひとしきり飲んだ後「ヴェッ」と軽くゲップを吐くと、コーラを元の位置に戻した。
人間は右利きが多いので、映画館の座席に付いたドリンクホルダーは右側を使うのが一般的だ。
たまに間違えて左側を使ってしまう人もいるだろう。だがこのオッサン(仮)は単に自分の左側にある飲み物を飲んだわけではない。自分で購入していない飲み物を飲んだのである。間違いではなく、故意的だろう。
注意しようかと思った春美だが、揉め事を起こしてスクリーンの間羅村 大を見られなくなるのは嫌だった。
でも腹が立つし、何より見知らぬオッサン(仮)に自分の飲み物を飲まれた事実に寒気がする。
恐らくまだ容器の中にコーラは残っているだろうが、飲めばオッサン(仮)と間接ディープキスをすることになる。
このストローには、オッサン(仮)の唾液や歯垢などの成分が付着しているに違いない。
スクリーンに集中したい春美だったが、どうしてもコーラに気を取られてしまう。
そうこうしているうちに、オッサン(仮)はまた春美のコーラに手を伸ばし、ゴクゴクと飲み始めた。
ズルルッジュルッズルルルルルジュジュジュジュルルルジュッジュッ
容器の底に入った氷の間にわずかに残るコーラまで吸い尽くす音が聞こえた。
春美のコーラは全て、オッサン(仮)の口から喉を通り、食道を流れ胃のなかに収まってしまったのである。
さらにオッサン(仮)は、コーラの容器の蓋を開け、氷を口に流し込むとガリガリと噛み始めたのだ。
ガリッガリガリガリッボリボリッボリボリボリボリ
静かなシーンにも関わらず、オッサン(仮)は構わず咀嚼音を館内に響かせる。
開演時間に間に合わないわ、人様の飲み物を我が物顔で飲むわ、館内で不快な音を立てるわ、まさにブタの尻にくっついた雑菌以下の存在というべき観客である。
同じオッサンでも、スクリーンの中で13人の敵兵士を1人で薙ぎ倒し、血のついたナイフを舐めながら「この血こそ、オレにとってのバルサミコ酢だ」とキメキメな決めゼリフを吐く間羅村 大と右隣のオッサン(仮)とでは、天とマントルほどの差だ。
春美の気分は完全に右隣のオッサン(仮)に害され、映画どころではなくなってしまった。
気がつくと、スクリーンではすでにエンドロールが流れていた。
あと数分で会場の明かりがつく。
その瞬間に右隣のオッサン(仮)の顔を見て、文句を言ってやろうと決意した春美。
エンドロールの最後に監督の名前が表示され、映画が終了。
会場が明るくなった。
春美は0.1秒以下のスピードで右隣のオッサン(仮)へと顔を向ける。
そして驚愕した。
オッサン(仮)は、間羅村 大。
10年間、毎日のように間羅村 大のことを見続けてきた春美が見間違うはずがない。
正真正銘、本物の間羅村 大なのだ。
憧れの人物を目の前に、意識が完全に停止した春美。
間羅村は立ち上がり、観客の中に紛れて会場を出て行った。
衝撃的なことが起きると人間は何もできなくなると聞いたことのあった春美。今まさにそれを痛感している。
自分の右隣で飲み物を奪った迷惑客は、自分が大ファンである間羅村 大その人だった。
つまり、春美の買ったコーラのストローは、間羅村 大が口をつけたストローということである。
春美はストローを咥え、喉の奥まで突っ込み、アリの巣穴に刺した木の枝を舐めるチンパンジーのごとく、ストローをベロベロとひとしきり舐めた後、コーラの容器ごと持ち帰った。
<完>