女からあるアパートを指定され、その前で翌日の13時に待ち合わせをした。
結局、昨夜は一睡も出来なかった。今は少し落ち着いたが、俺の体は完全に、殺人犯の残滓を吸わないと狂うようになってしまったようだ。
アパートは外から見てもかなり古いことがわかる。築30年以上は経過しているであろう、木造2階建て。
13時5分頃、女が徒歩でやってきた。俺たちはアパートの105号室の前まで行き、女がポケットから取り出した鍵で扉を開け、中に入った。キッチンがついた6畳ほどの洋間。一人暮らし向けの部屋だ。
「この部屋……キミが住んでるの?俺みたいな、どこの誰かもわからない奴をあげていいのか?」
「そんなわけないじゃない。家具がひとつもないのに住めるわけないでしょ。このアパートは、私の父が経営する不動産屋が管理してるの。ここは空き部屋。今日はこの部屋の鍵を借りてきた。父に頼めば、いつでも内覧できる。」
「もしかしてキミ……俺を監禁するつもりか……?禁断症状が出たら連絡しろって言うから来てみたけど、俺を閉じ込めて無理やり症状を抑え込もうってわけじゃないだろうな……?」
「違う。むしろアナタにとって嬉しい提案のはずよ。お風呂場を見てみて。」
俺は玄関の右隣にある風呂場の扉を開けた。そこには残滓があった。
床に膝をつき、頭を抱えながら、大きな口を開け苦悶の表情を浮かべる全裸の若い男。その残滓が。
「これは……?」
「この部屋は殺人事件が起きた部屋、つまり事故物件。この男は恋人を絞殺し、風呂場で死体をバラバラに切り刻み、肉片を少しずつトイレに流していたの。その途中の感情が残滓になったようね。」
俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。
女は続ける。
「私、父に頼んでいろんな事故物件を見せてもらってるの。そこで殺人犯の残滓を吸ってる。空き部屋に人が入ってくることはないから、残滓を独占できるのよ。この前のお詫びに、アナタにこの部屋の残滓を吸わせてあげようと思って。もしよかったら、これからも事故物件を紹介してあげま」
女の説明が終わる前に、俺は残滓と重なっていた。自分で意識するよりも早く体が動いていた。もう我慢できない。目の前に、求めていた殺人の快楽があるのだから。
俺は浴室で膝をつき、頭を抱え、大きな口を開けた。口の中から男の残滓が流れ込んでくる。
これだ!俺が味わいたかったもの!心臓、胃、腸が手で掴まれるような感覚!全身に鳥肌が立つ!いや、細胞の一つひとつが震えている!脳みそがミキサーでかき混ぜられるように感じる!腹の底から何かがふつふつと込み上げてくる!
俺はその場で嘔吐した。
気持ちが悪い。というより、何だこの不安感は。昨日の夜とは比べものにならないほどの不安を感じる。
それに罪悪感。取り返しのつかないことをしてしまったという感覚が、雨のようにのしかかってくる。
そして喪失感。とても大切なものを失い、これ以上生きていても意味がないという絶望が心を満たす。
頭から大量の汗が流れ、首から背中へと伝う。あの殺人犯の残滓を吸った時とは全然違う。今すぐこの感覚から逃れたい。
「……大丈夫かしら?よかったら、コレ、使う?」
浴室の入り口に立つ女は、ポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。
俺は女からナイフを奪い、自分の首に突き刺した。これが、この感覚から逃れる最善の方法だと思ったからだ。
ナイフを左から右へと動かす。血飛沫が顎にかかり、ダラダラと温かいものが腹へと流れていく。
「そうそう、言い忘れてた。ここで恋人を殺した男は、その罪悪感から自殺したらしいわ。自分の首を切って。」
ナイフは止まらない。呼吸をすると傷口から空気が出入りし、喉がスースーする。叫び声を上げたいほどの激痛が走るが、喉を震わせることができない。
「殺人は必ずしも快楽を生むとは限らないの。それに言ったでしょ?残滓は奪い合いって。アナタのようなライバルには1人でも多く死んでもらった方が、好都合なの。」
俺は床に倒れた。風呂のように温かい血溜まりが体を包む。
女は笑いながら浴室の扉を閉めた。俺の残滓が、ここにとどまることはない気がする。
<完>