私の名前はジロギン。

HUNTER×HUNTERなどの漫画考察や、怪談・オカルト・都市伝説の考察、短編小説、裁判傍聴のレポートなどを書いている趣味ブログです!

【日記】「なぜ友達がいないことが異常なのか」を私に説明できなかった大人たち

私の名前はジロギン。

 

先日、社会人になっても交流が続いていた、大学時代のサークルの人間たちと二度と会わないことを決意しました。

きっかけは犬も食わない、いや犬も嘔吐するほど些細なケンカなので詳細は割愛します。昔からなめられたり、バカにされたり、利用されて必要以上にお金を払わされたりすることばかりだったので、いつかは関係を断たなければと感じながら、ダラダラ付き合いを続けてきた人間たちです。きっかけ自体は小さなものでしたが、過去の積み重ねにより私の許容量をオーバーしてしまいました。

 

そんな人間たちなので元々友達とは思っていなかったのですが、では自分にとってこの人間たちの存在は何なのかというと「友達」しか該当する定義がないので、不本意ですがここでは広い意味での友達とします。でも、

「結局友達なんてこんなものなのか……きちんと選ばなければ都合よく利用されるのがオチで、孤独なほうが最高!至高!御来光!ってことになっちまうのか……」

と、ここ数年で強く感じるようになった要因の一つは、間違いなくこの大学時代の友達どもの存在です。

 

しかし、大学の友達どもと会う前から、私は友達という存在に対してあまりポジティブな感情を抱いてこなかったように思います。その原因はこれじゃないか?と思い当たる体験を中学時代にしました。

今回の件で当時のことをふと思い出したので、少し苦い思い出なのですが、今の感情と共に備忘録がてらまとめます。

あわせて「友達がいないこと」や「人間関係が狭いこと」などで劣等感を抱いている人を、ちょっとだけ勇気づけられれば幸いです。

 

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中学生のとき、私はマジで友達がおらず、学校に登校してから家に帰るまで一言も発しない日が週4である男児でした。

休み時間は教室で一人。男子も女子も、みんな校庭へ遊びに行ってしまう。暇だから次の授業の小テストの勉強をするも、まだ休み時間は終わらない。残り数十分は学校の中を散歩する。このような学生生活を3年間送っていたのです。

そんな私を見た担任の先生は、通知表に毎回「他人に興味を示さず誰ともコミュニケーションを取ろうとしない」「目的もなく校舎内を徘徊している」と書いてきました。それを読んだ両親は私に「友達がいないお前は異常だ」と3〜4時間の説教。時には暴力。きっと彼らには「クラスメイトと仲良くしてる子=健全」という偏見があったのでしょう。

 

なぜ私がクラスメイトと交流しなかったかというと、当時学年全体で、ある一人の子に対するイジメが発生しており「イジメをするような連中とつるむ必要はない」とみなしていたため。なんなら、そのイジメられている子と会話するのは私だけでした。

担任の先生はイジメの解決方法はないかと週1で私に相談してきましたので、生徒の多くがイジメをするような人間性の持ち主だと知っていたはず。にも関わらず、私のボッチっぷりを通知表にツラツラと書くのです。「そんな奴らと友達になりたいわけないよな」と、なぜ理解してくれなかったのか、今でも不思議でなりません。

その後、私がイジメの主犯格にこれ以上やめるよう言い、イジメが止まったら、両親は「お前は正しいことをした」と手のひらを返す始末……反吐がダムの放水のように出るぜ!

 

このような過去があるため、私は友達という存在に対しネガティブなイメージを持っているのだと思います。

そして大人になった今、改めて感じるのは、親も教師も「友達がいないのは異常」と頭ごなしに言うだけで、「なぜ友達がいないことが異常なのか」を客観的・論理的に説明してこなかったことへの違和感です。

大人同士の間で、例えば会社の同僚に「私は〇〇をやりたい」「あなたは〇〇をやるべき」などと提案する場合、それを裏付ける客観的な事実や根拠がなければYESとは言ってもらえないでしょう。何を提案するかにもよりますが、重要な決断である場合や、相手に大幅な変更を求めるようなときほど、「〇〇をやりたい」「〇〇をやるべきだ」と言うだけでは、

「それってあなたの感想ですよね?」

「何かデータとかあるんですか?」

と一蹴されてしまいます。これは私が中学生の頃、ほんの15年くらい前の大人の社会でも同じだったはず。感情論だけで自分の提案が通せるのは子どものとき(しかも低年齢)までです。

けれど当時の大人たち、私の親や教師は客観的・論理的な説明を一切しませんでした。いや、できなかったんだと思います。まだ社会に出たこともない世間知らずの中学生一人納得させる論理を立てる能力すらない。だから、立場や暴力を使って自分の価値観を押し付けていたのではないかと。

もし「子どもだから怒鳴ったり、力で押さえつけたりすれば納得するだろう」と考えていたのであれば、もっと問題ですね。それは子どもを育てるために施す教育ではなく、自分の偏った価値観を子どもに刻み込み支配するための洗脳です。

当時の親や教師と近い年齢になって、このような違和感というか、自分が普段の社会人生活の中で当たり前にやっていることができていないことへのヤバさを痛感しました。この人たちよく社会で生きてこられたなと。

そして自分の人格形成期に、このような人間たちと関わっていたことにゾッとします。物事を他人のせいにするのは良くありませんが、私がひねくれてるのは確実にこの人たちが影響してるよなぁ…

 

ただ、

「なぜ友達がいないことが異常なんだよ!客観的かつ論理的に説明しろこのクズ親&ボンクラ教師!」

という私の主張はかなりイジワルなもので、説明できる人はまずいないことを分かっています。だって友達がいなくても普通に生活してる人はたくさんいるし、友達と遊ぶ時間を自己研鑽に充てたことで社会的に成功した人もいるのだから、論理もクソもないんだもの。

でも親と教師のほうが先に暴論を振りかざしてきたのだから、それに対抗するのは当然ですよねぇ。

まぁ、私がこんなイジワルな考え方をする人間になってしまったことは、0.000000001%くらい反省しています。が、そもそも何が異常だったかといえば、友達がいない私ではなく、親や教師の頭のほうだったのではないかと思うのです。

「いま自分が子どもに言っていることは、本当に正しいのだろうか?」

「感情論だけで話を進めていないだろうか?」

「自分の意見を裏付ける根拠やデータ、事例はあるのだろうか?」

「自分と同じ発言を、権威ある人もしていないだろうか?」

「子どもが友達を作ろうとしないことには、何か事情があるのではないか?」

いい年してこういった客観的な視点を持っていなかった親や教師こそ⚫︎⚫︎で⚫︎⚫︎⚫︎で⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎で⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎だったのではないかと(自主規制)。

相手が子どもだろうが大人だろうが、きちんと筋の通った話し方をしなければ、いくら言っても通じないのは当然だと思います。

 

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いま「友達がいない」「人間関係が狭い」と悩んでいる人は、もしかしたら周りの人から「友達がいないのは異常」などと、偏った価値観を押し付けられたことがあるから、悩みだと感じているのではないでしょうか。

もしくは「人間関係の多寡で人としての優劣が決まる」という、私の親や教師に近い根拠のない考えに、つい走ってしまっているのではないでしょうか。

 

正直、私の大学時代の友達との関係性はストレスになることが多く、関係を断ったことによる悲しみや後悔はありません。ドライアイのまま目はカラッカラで、涙は0.01デシリットルも出ませんでした。

友達が多ければ人として優れているなんて事実はこの世に1ナノメートルも存在してませんし、友達は誰でも良いわけではなく、自分にピッタリな人でないと厄介ごとを増やす悩みのタネになってしまうと思います。

けれど、自分のタイプとピッタリ合う人に出会える確率はどれくらいなのでしょうか。地球上には約80億人の人間がいて、日本だけでも人口は1億人以上。これほど膨大な数の人間の中から、たった数十人をピックアップした学校のクラスや部活動、サークル、会社の中に相性抜群な人がいる可能性はどのくらいなのでしょうか。具体的な数値は出せませんが、おそらく超低確率になるでしょう。だから「友達がいない」なんていうのは当たり前で、むしろ本当の意味での友達に出会えた人のほうが珍しく、幸運なのではないかと感じます。

これから私は「人間関係の多寡で劣等感を抱く必要はない」と考えながら生き、自分にピッタリ合う人こそ「友達」として大切にしていくつもりです。

 

「こんな屁理屈まみれで、ひねくれた思考回路をしているのは友達がいないからだ!」

と言われたらそれまでです。が、私は人を⚫︎したり、建物を爆破したりなどブタ箱にぶち込まれるようなことはしてこず、品行方正とはいえないまでも、それなりの社会性は持ち合わせています!……まぁ確かに、家の中で下半身素っ裸のままダンスすることもあるけれども、これも友達がいないことが原因なのかな……?