私の名前はジロギン。

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【オカルト考察】『怪獣のバラード』の怪獣はモンゴリアン・デス・ワームではないらしい

私の名前はジロギン。

 

『怪獣のバラード』という歌をご存知でしょうか。

小中学生が歌うことの多い合唱曲です。

 

私がこの曲に出会ったのは、中学1年生の合唱祭のときでした。

クラスで歌う曲が怪獣のバラードに決まったのです。

当時、UMA(未確認生物)の情報収集に熱中していた私は、怪獣のバラードを歌いながらこんなことを思っていました。

怪獣とは砂漠に住むUMA「モンゴリアン・デス・ワーム」のことではないか? 

一度この説を思いついてしまったら、合唱の練習中も頭から離れません。

考えすぎるあまり声が出なくなり、女子から「ちょっと男子!ちゃんと歌ってよ!」と怒られることもしばしば。

しかし、こんな突拍子も無い説を誰かに相談するわけにもいかず、心の奥底にしまい込んでいたのです。

 

それから十数年、改めて歌詞をよく見ると怪獣はモンゴリアン・デス・ワームではないとしか思えなくなっていました。

すっかり否定派になってしまったのです。

そこで今回は、怪獣のバラードの怪獣はモンゴリアン・デス・ワーム説を真っ向から否定したいと思います。

 

怪獣のバラードとは

作詞:岡田 冨美子さん
作曲:東海林 修さん

 

合唱曲としてお馴染みの歌です。

砂漠に住む怪獣の気持ちを歌っています。

歌詞は以下の通り。

真赤な太陽 沈む砂漠に
大きな怪獣が のんびり暮らしてた
ある朝 目覚めたら
遠くにキャラバンの鈴の音聞こえたよ
思わず叫んだよ
海が見たい 人を愛したい
怪獣にも 心はあるのさ
出かけよう 砂漠すてて
愛と海のあるところ

 

真赤な太陽に 昇る竜巻を
大きな怪獣は 涙で見つめてた
自分の足跡に 両手をふりながら
東へ歩いたよ 朝昼夜までも
海が見たい 人を愛したい
怪獣にも 望みはあるのさ

 

あたらしい太陽は燃える
愛と海のあるところ
あたらしい太陽は燃える
愛と海のあるところ

 

モンゴリアン・デス・ワームとは

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モンゴルのゴビ砂漠に生息していると言われるUMA。

ミミズのように長い体をした生き物で、牛の腸に似ていることから現地では「オルゴイ・ホルホイ(腸虫という意味)」とも呼ばれています。

 

体長は45〜150cmほど。目や鼻はなく、砂の中で過ごしているとされています。

周囲に近寄る者がいれば毒液を飛ばしたり、電撃で攻撃してきたりするなど性格は非常に獰猛です。

 

このような特徴のうち、私は「ゴビ砂漠に生息している」という情報だけで怪獣のバラードの怪獣=モンゴリアン・デス・ワーム説を脳内展開してしまいました。

安直だったと深く反省しています。申し訳ございません。

怪獣のバラードの歌詞とモンゴリアン・デス・ワームの生態をより深くまで比較すれば、このような説に至るはずなど無かったのです。

 

怪獣がモンゴリアン・デス・ワームではない根拠

では、実際に怪獣のバラードの怪獣=モンゴリアン・デス・ワーム説を否定していきます。

根拠となるのは次の4点。

  • モンゴリアン・デス・ワームの大きさ
  • モンゴリアン・デス・ワームの性格
  • 怪獣は涙を流す
  • 怪獣は手と足がある

それぞれ解説します。

 

モンゴリアン・デス・ワームはそれほど大きくない

怪獣のバラードの歌詞を見ると、怪獣は「大きい」とのこと。

そしてモンゴリアン・デス・ワームの体長は45〜150cmほど。

150cmあるミミズ型の生き物は確かに大きいですが、人間と比較してもサイズは小さめです。だいたい小学生の身長と同じくらいでしょう。

 

「大きな怪獣」と聞いて私たちが想像するのは体長数メートル、あるいはゴジラのような数十メートルはありそうな生物ではないでしょうか。

モンゴリアン・デス・ワームの体長は「大きな」と呼ぶには不十分なように感じます。

 

モンゴリアン・デス・ワームは人を愛さない

モンゴリアン・デス・ワームの性格は獰猛。獲物を見つけたら毒液や電撃で攻撃します。人間に対しても同様です。

モンゴリアン・デス・ワームによって数百人が死亡したという説もあります(確証なし)。

 

毒液や電撃まで備えている殺意ビンビンのモンゴリアン・デス・ワームが、歌詞にあるように「人を愛したい」なんて考えるのでしょうか。

そうは思えません。

むしろ他の生き物を殺戮するために能力を研ぎ澄ましたマシーンのようにすら思えます。 

 

そもそも人を愛したいと考えている生き物ならば、すでに人間の前に現れているはず。

UMAではなくなっていると思うのです。

 

人間に発見されないように身を隠し、近づこうものなら殺傷しようとするモンゴリアン・デス・ワームは、歌詞にある怪獣の姿とは異なるように感じます。

個体によっては人間に好意的なモンゴリアン・デス・ワームがいるかも…?

涙を流す=目がある

ここからの根拠は、怪獣=モンゴリアン・デス・ワームではない説を決定づけるものです。強さが前2つの根拠とケタ違い。

 

歌詞の2番をご覧ください。

怪獣は砂漠の太陽に向かって昇る竜巻を「涙で見つめて」います。

つまり涙を流す目があるということです。

 

モンゴリアン・デス・ワームは砂の中に生息しているため、目はない(退化している?)とされています。涙を流せるはずがありません。

明らかにモンゴリアン・デス・ワームにはできないことを怪獣はやっています。

 

足跡に両手を振りながら=手足がある

決定打となる根拠はまだあります。

同じく2番の歌詞に「自分の足跡に両手を振りながら」という部分があります。

つまり怪獣には手と足があるということです。

 

モンゴリアン・デス・ワームはミミズのような生き物で手足はありません。

足跡をつけることもできなければ、両手を振ることもできないのです。

 

モンゴリアン・デス・ワームが地面の上を移動すれば跡がつくのでそれを足跡と言えないこともないでしょう。

しかし、手を振ることは確実に不可能。

よって怪獣はモンゴリアン・デス・ワームではないと考えられるのです。

 

『怪獣にバラード』の怪獣とは?

以上、4つの根拠から怪獣=モンゴリアン・デス・ワーム説を否定しました。

ご納得いただける内容だったのではないかと思います。

タイムマシンがあるならば、私の中学時代に戻って教えてあげたいです。

あの時の私は考察が甘く、未熟な青二才でした……

 

では、怪獣のバラードに登場する怪獣とは一体何なのでしょうか。

作詞を担当した東海林 修さんによると、怪獣は「公害」という想定だったとのこと。

参照:ステージ101/怪獣のバラード

 

何かの生き物をモチーフにした歌ではなく、公害を怪獣に例えた歌だったということです。

人間を悩ませる公害が、人間に寄り添おうとする悲しい歌でした。

 

怪獣のバラードの解釈を調べてみると、怪獣=モンゴリアン・デス・ワーム説がいかに浅い考えだったか痛感します。

中学生の頃ってなぜかアホなこと考えちゃいますよね…私だけかな?